babillion’s blog

地球村人です。プロの翻訳者ではないが、趣味で文章を翻訳したり、気ままに感想文を書いたりします。コメント大歓迎です。よろしくお願い致します。

「传道授业解惑」の日本語訳について

 翻訳の途中に「由天下最为知名的饱学鸿儒亲自传道授业解惑」という中国語の一文があった。全体でみると難しくないが、「传道授业解惑」の部分をどうすれば意味を完全に伝えられるかと研究してみたが、結果的に不可能だった。

 「传道授业解惑」の由来は唐代文学家の韩愈の《師説》からの一つのフレーズだ。普通の中国人なら、詳しくで説明できなくても、なんとなくで理解できる。ところで、これの意味を日本語にしたいとなると、どうしても短い単語で説明できない。しかし、長い説明を入れると、元の文章を読むのに、読む流れを断ち切ることになってしまうので、さらに望ましくない。

 中国の古典名作は昔から日本語訳もあって、博識な人なら知っているケースもあるだろう。この《師説》もそうで、日本語訳を下に貼っておいた。しかし、中国人みたいに、普通になんとなくで理解できる人は少ないだろう。

 こういう部分は、その国の文化になるので、単に日本語ができるとか、中国語が話せるとかいうレベルではないだろう。

 迷う末、文章全体を読む流れを優先にしたので、とりあえず

「天下で最も有名な博学の儒士の手によって教育指導を行われた」と訳した。

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「传道授业解惑」の現代的な説明。

https://zhidao.baidu.com/question/617931348084129972

韩愈的《师说》曰:师者,所以传道授业解惑也。老师,不只是简单的教书匠,还要教授学生为人处事的道理与主动学习得可贵品质。
“传道”,要求老师言传身教,传授知识的同时培养学生的人格品质。对于学生来说,教师影响到学生们的健康成长与发展,所以这就要求我们在情感、态度、价值观上对学生进行激励、鼓舞,在平时的用自己的良好品质与精神气质去感化同学,逐渐培养学生的独立人格,形成他们正确的价值观、世界观。
“授业”,传授基础知识与基本技能,这是老师与家长最关心的主题。身为老师,要有一定的知识储备,并采用恰当的方法传授给学生,使学生能够更好的接受、吸收与利用。如果内容有点枯燥,那可以采用不同的教学法,充分调动学生的积极性,使教学任务更好的进行下去。
“解惑”,学生通过主动学习提出他们的疑惑,老师要有效地解决知识的困惑。采用恰当的方法调动了学生的主动学习能力,进而发掘培养学生勇于质疑的精神。对他们生活中的问题,也要注意观察,必要的时候给出自己的建议,使他们很好的走出困惑。在解惑的同时也要意识到,解惑的最终目的是培养学生独立的人格并使他们自己掌握一定处理问题的能力,在帮助的时候要留有空隙让他们自己去探索、去发现。

一名教师要真正做到“传道、授业、解惑”,还要具备三颗心:“爱心、耐心和责任心。

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 《師説》の中国語の原文と原文の説明

http://fanti.dugushici.com/ancient_proses/70568/prose_translations/3287

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《師説》の日本語訳もここに貼っておく。

https://zhidao.baidu.com/question/1692309721074864308.html

古(いにしえ)の学ぶ者は、必ず师有り。师は道を伝へ业(ぎょう)を授け惑(まど)ひを解く所以(ゆえん)なり。人は生まれながらにして之を知る者に非(あら)ず。孰(たれ)か能(よ)く惑ひ无からん。惑ひて师に従はざれば、其の惑ひたるや、终に解(と)けざらん。吾が前(まえ)に生まれて、其の道を闻くや、固(もと)より吾より先(さき)ならば、吾従ひて之を师とせん。吾が後(のち)に生まれて、其の道を闻くや、亦(ま)た吾より先ならば、吾従ひて之を师とせん。吾は道を师とするなり。夫(そ)れ庸(なん)ぞ其の年の吾より先(せん)後生(こうせい)なるを知らんや。是(こ)の故(ゆえ)に贵(き)と无く賎(せん)と无く、长(ちょう)と无く少(しょう)と无く、道の存(そん)する所は、师の存する所なり。
嗟乎(ああ)、师道(しどう)の伝はらざるや、久(ひさ)し。人の惑ひ无からんと欲するや、难(かた)し。古の圣人は、其の人に出(い)づるや、远し。
犹(な)ほ且(か)つ师に従ひて问ふ。今の众人(しゅうじん)は、其の圣人を去るや、亦た远し。而(しか)も师に学ぶことを 耻づ。是の故に、圣は益々(ますます)圣にして、愚(ぐ)は益々愚なり。圣人の圣たる所以(ゆえん)、愚人の愚たる所以は、其れ皆、此(ここ)に出づるか。
其の子を爱しては、师を択(えら)びて之を教ふ。其の身に於(おい)てや、则(すなわ)ち师とするを耻づるは、惑へり。彼の童子(どうじ)の师は、之に书を授けて其の句読(くとう)を习はしむる者なり。吾が所谓(いわゆる)其の道を伝へ、其の惑ひを解く者に非ざるなり。句読の知らざる、惑ひの解けざる、或(ある)ひは师とし、或ひは不(しか)らず。小を学びて大を遗(わす)る。吾未(いま)だ其の明なるを见ざるなり。巫医(ふい)楽师(がくし)百工(ひゃくこう)の人は、相(あい)师とするを耻ぢず。士大夫(したいふ)の族(ぞく)、日はく师、日はく弟子と云はば、则ち群(むら)がり聚(あつ)まりて之を笑ふ。之を问へば则ち日はく「彼と彼とは年相若(し)けり、道、相相似たり。」と。位(くらい)卑(ひく)ければ则ち羞(は)づるに足り、官盛(さか)んなれば则ち谀(へつら)ふに近し。呜呼(ああ)、师道(しどう)の复せざること、知るべきなり。巫医、楽师、百工の人は、君子之を鄙(いや)しむ。今、其の智は、乃ち反(かえ)って及ぶ能(あた)はず。怪(あや)しむべきかな。圣人には常(つね)の师无し。
苌弘(ちょうこう)师襄(しじょう)老耼(ろうたん)郯子(たんし)の徒(と)は、其の贤(けん)孔子に及ばず。孔子日はく「三人行(おこな)へば、则ち必ず我が师有り」と。故に弟子(ていし)は必ずしも师に如(し)かずんばあらず。师は必ずしも弟子より贤ならず。道を闻くに先後(せんご)有り、术业に専攻有りて、斯(か)くの如きのみ。李氏(りし)の子蟠(ばん)、年十七。古文を好み、六芸(りくげい)経伝(けいでん)、皆通じて之を习ふ。时に拘(かか)はらずして、余(よ)に学ばんことを请ふ。余、其の能く古道を行ふを嘉(よみ)し、师の说を作りて、以て之に贻(おく)る。